เข้าสู่ระบบ玄関の扉が閉まる。外の音が遠ざかり。静かな部屋に、鍵のかかる小さな音だけが残った。隼人くんは私のバッグを持ったまま、廊下の奥へ向かう。「寝室に置いてくるね」「ありがとうございます」答えると。振り返った隼人くんが、少しだけ笑った。「急に敬語」「荷物、持ってもらったので」「そういうところ、まだ綾香ちゃんらしいね」そのまま寝室へ消えていく。私はリビングへ入り。窓際で足を止めた。ガラスの向こうに、夜の街が広がっている。高層ビルの窓。赤く明滅する航空灯。道を流れていく、細い車の光。ガラスには。部屋の柔らかな明かりと、私の姿が薄く重なっていた。昨日も見た景色だった。けれど。今日は、胸の内側に残るものが違う。怒りを抱えたまま入った昨日より。呼吸が、ずっと楽だった。寝室から戻ってきた隼人くんが。ソファの前に立ったままの私を見る。「どうしたの?」「何でもないです」「帰りたくなった?」「なってないよ」言い切ると。隼人くんの目元が、分かりやすく緩んだ。「よかった」私の肩へ、指先が触れる。手のひらで押すのではなく。こちらへおいでと伝えるような、ごく軽い触れ方だった。二人でソファへ座る。昨日と同じ場所。けれど。今日は、腕を下ろせば互いの袖が触れそうだった。隼人くんが背もたれへ身体を預ける。横を向いた視線が、私の顔へ留まった。「昨日は、空気悪かったよね」「自分で言うんですか?」「俺のせいなのは分かってたけど」少しだけ笑う。「分かってたなら、何とかしてくださいよ」「何とかしようとはしてたよ」「できてなかったでしょう」「うん」あっさり認める。隼人くんの腕が、私の肩の後ろへ回った。まだ、抱き寄せるほどの力はない。ただ。そこに腕を置いてもいいか、様子を見ている。「彼女が家にいるのに」低い声が、すぐ近くから落ちる。「いてくれて嬉しいのと」私の顔を見て。口元だけで笑う。「空気悪いのが両立するって、なかなかないよね」「笑い事じゃないでしょう」「でも」肩の後ろにあった腕が。ほんの少しだけ私を引いた。「怒ってるのに、帰らなかったから」「帰ろうとは思いました」「でも帰らなかったよね」「それは……」続きを探していると。隼人くんの目が、私の横顔を静かに追う。「嬉しかった?」
私のマンションの前へ着くと。隼人くんは、そのままタクシーを待たせた。「すぐ戻る?」「うん。着替えだけ取ってくる」「じゃあ、ここで待ってる」私は一人でエントランスへ入った。部屋へ戻り。クローゼットを開く。少しだけ迷う。昨日。次に来る時は、服を置いていって。そう言われた。どこまで本気なのか。確かめたわけではない。それでも。隼人くんの家に残しておいても困らない服を選び。小さく畳んで、バッグの奥へ入れた。玄関を出る。待たせていたタクシーへ戻ると。隼人くんが、私のバッグへ目を落とした。「意外とちゃんと持ってきたね」「明日の仕事もあるから」「置いておける服も持ってきた?」すぐに聞かれる。私はドアを閉めながら。少しだけ視線を逸らした。「ちょっとだけ」隼人くんの口元が。分かりやすく緩む。「そっか」それ以上は言わなかった。けれど。満足していることは、十分伝わった。タクシーが動き出す。夜の道を抜け。隼人くんのマンションへ向かう。同じ夜に。二度目の車寄せだった。一度目は私の家。今度は。隼人くんの住むマンションのエントランス。タクシーは、そのまま広い車寄せへ入った。照明に照らされた石造りの壁。静かに開く自動ドア。ホテルのように整えられたエントランス。見慣れたはずなのに。改めて見ると。やはり、私の生活とは少し離れた場所にあるように思える。「すごいマンションですよね」何となく口にすると。隣から、すぐに返事が落ちた。「一緒に住む?」あまりにも自然で。冗談なのかどうかも分からなかった。私は隼人くんを見る。「え?」「ここで」窓の外へ目を向ける。「一緒に住む?」同じ言葉を。今度は少しゆっくり言われる。笑ってはいない。軽くも聞こえない。言葉が出てこないまま。隼人くんを見返す。その間にも。タクシーは完全に停まった。「……隼人くん」ようやく名前だけを口にすると。隼人くんは、少しだけ目を細めた。「降りるよ」何もなかったように言う。先にドアを開け。私の分のバッグまで自然に持って降りた。「自分で持てるよ」「分かってる」「じゃあ」「持ちたいから」そのまま。私の返事を待たずに歩き出す。エントランスのゲートを通り。エレベーターホールへ向かう。隣に並びながら
直くんは。そのまま軽く手を上げた。「じゃあ、おやすみ」「おやすみ」「お疲れ様です」ドアが閉まる。タクシーは。滑るようにホテルの前を離れていった。赤いテールランプが。通りの先へ消えていく。「本当に」私は小さく息を吐いた。「忙しいのに、元気だよね」「そうだね」隣から返事が落ちる。顔を上げる。隼人くんは。タクシーが消えた方向ではなく、私を見ていた。「何?」「いや」少しだけ笑う。「お兄さん、面白い人だなと思って」「直くんが?」「うん」「合いそうだったよ」「仕事なら、たぶん」「仕事じゃなくても」言うと。隼人くんが目を細めた。「綾香ちゃんが間にいなければ」「もう少し気楽に話せるかもしれない」「私がいると、話しにくい?」「そうじゃないよ」すぐに否定する。「ただ」少しだけ考えるように視線を外す。「近いから」何のことか。すぐには分からなかった。「直くんとの距離?」「うん」「兄妹だよ」「分かってる」隼人くんは、苦笑する。「気にはならないって言ったけど」「結構近いなって思って。ここに着いて、二人を見たときに。気持ちがざらついたのは本当」言葉は穏やかだった。責めるような響きもない。それでも。少しだけ引っかかっていたことが分かる。「直くんは」私は言う。「昔から、ああいう距離だから」「うん」「私も慣れてるし」「それも分かってる」隼人くんは。ゆっくりこちらへ近づいた。ホテルの入口を出入りする人を避けるように。私の肩へ手を添え。少しだけ自分の方へ寄せる。「でも」低い声が落ちる。「自分の近くにいてほしいと思うのは」「仕方ないでしょう」胸の奥に。小さな熱が広がる。さっき。直くんの近くにいた私の手を。隼人くんが自然に引いた。あの時も。同じことを思っていたのだろう。「今も?」聞くと。隼人くんは、少しだけ笑った。「今も」肩へ置かれた手が。そのまま腕へ下りる。触れ方は軽い。けれど。離れるつもりはないらしい。「綾香ちゃん」「うん?」「今日も」一度、言葉を止める。「一緒にいたいんだけど」まっすぐ目を見られる。「うちに来る?」少しだけ間を置いて。続けた。「それとも、送ってく?」選ばせてくれる。どちらを答えても。嫌な顔はしないのだと
直くんが、一度こちらに視線を向けたのを感じる。そのまま、軽く笑って。視線をグラスに戻す。 「最近」少し間を置いてから、話を切り出した。「家の話を聞く機会、増えてるから」「どうして?」私が尋ねると。直くんは、ウイスキーのグラスを指先で軽く回した。氷が小さく触れ合う。「投資会社の方は相変わらず忙しいんだけど」一度、隼人くんを見る。「最近は、俺も家業を手伝うことが増えてて」「直くんが?」「そんなに意外?」「家のことは、真哉兄さんに任せてると思ってた」「基本はね」直くんは、軽く肩を竦める。「でも、投資や海外事業が絡むと」「俺の仕事と完全に切り離すのも難しいから」昔から。直くんは家の中へ収まる人ではなかった。白松家の名を使うより。自分で人脈を作り。自分の判断で事業を動かしてきた。それでも。完全に家から離れているわけではない。必要になれば。自然に戻り。家の外で得たものを、家のためにも使う。直くんらしい関わり方だ。「だから」直くんは、今度は隼人くんへまっすぐ目を向けた。「綾瀬で投資事業をやるなら」「今後、俺との関わりも増えるかもしれませんね」隼人くんが。少しだけ目を細める。「その可能性はあると思います」「やっぱり」「まだ」隼人くんは落ち着いた声で続けた。「具体的にどこまで引き継ぐかは決まっていません」「でも」「家の投資部門を残すなら」「外部との窓口は必要になるので」「そのうち、また会議で会いそうですね」直くんは、どこか楽しそうだった。「前は」「お互い、ほとんど話さなかったですけど」「次は、少し話せそうです」「仕事の場なら」隼人くんの口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。「今日よりは、真面目な話になると思います」「今日は真面目じゃなかった?」「半分くらいは」直くんが笑う。「じゃあ、残り半分は次に取っておきます」軽い会話だった。けれど。二人の間には。初対面の時よりも、少しだけ近い空気が流れている。直くんは。人との距離を縮めるのが早い。隼人くんも。相手の言葉の裏を読みながら。必要以上に構えることはしない。仕事で会えば。意外と相性がいいのかもしれない。そう思った時。直くんが腕時計へ目を落とした。「そろそろ行かないと」「まだ仕事なの?」「うん」「今か
「嫌いではないです」隼人くんは、すぐに答えた。「ただ」「綾香ちゃんの気持ちより先に」「話を決める人は、信用していません」直くんが。わずかに眉を上げる。それから。楽しそうに笑った。「はっきり言いますね」「直哉さんが、聞いたので」「そうでした」軽いやり取りだった。けれど。隼人くんの声には。冗談にして終わらせるつもりのない硬さが残っていた。私は。二人を交互に見る。直くんは。隼人くんの言葉を不快には感じていないようだった。むしろ。どこまで言う人なのか。楽しんで見ているようにも見える。「でも」直くんが、私へ視線を戻した。「父さんが諦めてない理由は」「家の仕事だけじゃないと思うよ」「他にもあるの?」「東郷家との関係も」その名前に。指先が止まった。隣で。隼人くんの視線が、わずかに動く。「優のこと?」「うん」直くんは、あくまで軽い調子で続けた。「離婚しても」「東郷家との関係自体は、引き続きいいでしょう」「うちは、仕事での取引も多いし」「真哉兄さんも、優とは普通に話してる」それは知っている。離婚したからといって。家同士の関係まで切れたわけではない。優も。東郷家の人間として。今まで通り白松家と関わっている。私個人の結婚だけが終わった。父にとっては。それくらいの違いなのかもしれない。「それに」直くんがグラスを持つ。「優の影響も、少しあるんだと思う」「どういうこと?」「たまに言ってるらしいよ」直くんは、何でもないことのように答えた。「家同士のことを考えても、別れる理由はなかったって」胸の奥が。小さくざらつく。意味が分からないわけではない。優は。自分なりに離婚の理由を理解しようとしている。それでも。なぜここまで戻れなくなったのか。まだ受け入れきれていないのだと思う。「別れた理由なら」私は言う。「いくらでもあるでしょう」「綾香にとってはね」直くんは、否定せずに答えた。「優にとっては」「全部、今から直せることに見えてるのかもしれない」隼人くんが。グラスへ手を伸ばす。一口飲む。表情は変わらない。けれど。さっきより少しだけ。横顔が静かになった。「隼人くん?」名前を呼ぶと。すぐにこちらを見た。「何?」「いや」何でもないと言おうとして。
「父さん、まだ諦めてないみたいだよ」直くんの言葉が。静かなテーブルの上へ落ちた。窓の向こうには。東京の夜景が変わらず広がっている。遠くを走る車の光も。グラスの中でゆっくり溶ける氷も。何も変わっていない。それなのに。さっきまでより、空気だけが少し重くなった。「何を諦めてないの?」私が聞くと。直くんは、すぐには答えなかった。ウイスキーのグラスを傾け。琥珀色の液体を少しだけ口にする。「縁談そのものは」グラスを置く。「綾香があそこまで言った以上、今すぐ押し通す気はないと思う」「今すぐは?」「父さんだからね」直くんが、少し困ったように笑う。「一度決めたことを、その場で全部諦める人じゃないでしょう」否定できなかった。父は。私が断ったからといって。自分の考えそのものが間違っていたとは思わない。今回は条件が整わなかった。時期が悪かった。相手との組み合わせが違った。それくらいに受け止めている可能性が高い。「ただ」直くんが続ける。「次の相手をすぐ探してる、って話じゃないよ」隣で。隼人くんの肩から、わずかに力が抜けたように見えた。けれど。表情は変わらない。「じゃあ、何?」「綾香を」直くんが私を見る。「家の仕事に、もう少し関わらせたいみたい」予想していなかった言葉に。一度、瞬きをする。「私を?」「医療法人の方もそうだし」「財団とか、地域医療の事業とか」「綾香が病院に戻って」「外のプロジェクトにも関わり始めたでしょう」直くんは、テーブルの上で指を組んだ。「父さんなりに」「今なら、綾香も家の中で役割を持てるって考え始めたみたい」「役割」その言葉が。少しだけ胸へ引っかかる。父にとって。家族は役割を持つものだった。真哉兄さんは。長男として家を支える。直くんは。外で人脈と事業を広げる。私は。家同士をつなぐ結婚をする。それがなくなったから。今度は医師として。家に利益を返す立場へ置こうとしているのかもしれない。「父さんが」隼人くんが静かに尋ねた。「綾香ちゃんの仕事へ、具体的に動いているんですか?」「まだ、そこまでは」直くんは首を横へ振る。「少なくとも、俺が聞いてる範囲では」「ただ」少しだけ目を細める。「最近、綾香が何をしてるのかは、かなり気にしてる」「プロ
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま







